「素顔のままに Mr.SUNSHINE
              実は Mr. Chin Shunshin 」



「もしもし、陳です。はいはい、わかりました。では」

「もしもし、陳です。作家の陳です。いや作家の〈相手はサッカーと間違える〉陳です」

 

陳舜臣さんの電話は、なんとなく気ぜわしい。それは陳さんが気ぜわしいのではなく、
陳さんがシャイだからという事が、後に判った。

 

「素顔のままに」の陳舜臣さんの事は、すべて目撃による陳舜臣さんの姿だ。
百聞は一見に如かず、ではないが、多分、作家の陳舜臣さんの姿をこれほどまでに間近で見続けた人も
少ないのではないであろうか? 人物像ではいろいろと描かれているだろうが、その本当の姿は知られているようで
知らないものだ。その雰囲気からは、ソフトでありながら強い意志があり断固たる自信も感じとれる。

振り返れば、昭和40年代にさかのぼる。初めて作家の陳舜臣さんと遭遇したのは、神戸のバーだった。
その頃の陳さんは、飲んだあとに執筆していたらしい(?)。らしいという事は、そんなに詳しく陳さんの事を
知らなかったからだ。二度目にお会いした時、「これから原稿書くので帰る」と言い、席を立ったからだ。
その後、再びガスライトというバーで、今度は急いで帰るそぶりもなくウイスキーを飲んでいた。
「酒を飲んで物を書くと文章がしつこくなるから、酒を飲んだら書くのはやめたよ」

この一言は名言と思い、常に心に刻み付けている。人に手紙を書く時、酒を飲んで書いて翌日読み直すと正にくどい。
その頃の陳さんは、執筆に追われて最高に忙しい時期であった。

 

1980年、神戸ポートピア博覧会が開催されて、陳さんの長女の由果さんが博覧会協会のコンパニオンになられ、
テレビの番組で陳さんと由果さんをインタビューをする事になった。由果さんの事になると「眼の中に入れても
痛くない」とは、陳さんのためにある言葉かと思ったほどだ。この時、制服姿の由果さんと会場内で撮影した
ツーショットは、後に自宅の居間に永く飾られていた。
陳さんとの親しさも深まり、年に何回か酒場めぐりをするようになって、毎年、年末の押し迫った日に締めくくりとして
杯を交わしていた。陳さんとの会話は、顔の広い陳さんだけに貴重な情報を何時も新鮮に聞くことが出来た。その頃、
月刊誌で『噂の真相』という本があり、〈新聞が報道しない話〉が掲載されており、問題も多いが情報通の間では
人気が高い月刊誌だった。そんな話になった時、陳さんは一言、こう言った。

「自分のもつ情報と、『噂の真相』の情報が同じなら、本当だという事だよ」

なるほど、さすが江戸川乱歩賞作家だけあると、その時は一人納得すると共に情報の確認の仕方を伝授された
気持ちだった。心の中で、秘かに陳さんの事を〈歩く広辞苑〉と勝手に考えていた。
陳さんと酒場めぐりをしていたある時、当時、阪急電車高架の横に中華料理の群愛飯店という店があった。
その前で「昔、此処の所に部屋があり原稿を書いていた」という話をぽつりとつぶやいた。
この話は、後に地震以前の良き時代の神戸の物語『五線紙の街』を書いた時、そのことも書かせていただいた。
面白いのは、三宮にレンガ筋という小道があり、そこの突き当たりの煙草屋の御婦人が小学校の同級生で、
あるクラブに行くとそこで働いている御婦人も同級生だ。

 

脳内出血で陳さんが倒れたのは、阪神淡路大震災の直前、宝塚歌劇80周年の時だ。暑い日であった。
いつもなら会社にいない時刻なのに何故か、その日は午後7時を過ぎてもデスクにいたのだ。
虫が知らせたのかもしれない。電話が鳴り、交換手が新聞記者から電話だと名前を告げられた。
電話口の向こうでは、

「陳さんが倒れはったの、知ってますか?」と。

「えっ!何処で?」

「宝塚のバウホールで講演中に」

「で今、何処へ?」

「それしか判りません」

「ありがとう」で、電話は切れた。

事件記者の時代の感情が突然に湧きあがった。病院は何処だろう? 宝塚には病院はそんなにない。
119番だ、消防に聞くのが早い。もしかして、もしかしてだと、一人では駄目だ、伝令役がいる。
あたりを見渡すと、陳さんと面識のある人間がデスクに座っていた。タクシーを呼び、すぐさま陳さんが運ばれた
宝塚の病院に向かった。病院は夜間のせいか、がらんとしていた。看護婦が一人いた。

「運ばれた人は何処に?」

「奥です」

病室を探すと一番奥の病室のベッドの上に陳さんがごろんと横たわっている。何か一回りも二回りも小さく見えた。
陳さん、陳さんと呼んでも返事も反応もない。服のままだ。ベッドの上に放置されているという感じを受けた。
受付の所を見ると、男の人が一人いた。新聞社の人だということは後で判った。サンシャインの頭部のレントゲン写真が
ぶら下がっていた。脳の中が切れて赤い筋が見えたように思った。

連絡しなくちゃ。奥さんに電話したが出ない。そうだ由果さんに電話に出ない。そうだ、由果さんのご主人に
これまた繋がらない。早く何とかしなくちゃと思っても、病院の院長は宝塚ホテルでの会合に出ているとかで不在? 
病院の中は静まり返り、救急の病人がいるのに、あわただしさが皆無だ。不思議な感じがした。

午後10時過ぎになって、連絡が取れて陳夫人が病院へ到着。すばやく「此の病院から直ぐに出して他の病院へ
移さないといけません」と耳打ち。会社から、もしもの時にと同行した人には面倒だけど、家が近いから
明日朝のご飯作って運んであげてと頼んだ。夫人は、たまたまお孫さんをつれて映画を見に行っていたそうだ。

やれやれ、そこへ新聞記者が「具合はどうですか?」と。

「大丈夫のようですよ。外国から帰ったばかりで少々お疲れの様子で」

と誤魔化したが。正直、当方は万が一もあるからと報道責任者だけに事の顛末を説明、もしもの時の取材準備をと
耳打ちした。

翌日、病院の院長が責任持たないと言う中を、強引に転院を強行。結果、それがサンシャインを助ける事になったのだと
後日改めて知った。倒れてからの経緯は誰も知らない事実である。後日、少し落ち着いてきた陳さんを病室に
お見舞いしたが、意識は余り定かでないようだった。それが証拠に、サンシャインは周りの人に
「なんであいつが見舞いに来ないか」と後日話していたそうだ。後の話だが、メディアの人たちが

「どうして陳さんが倒れて直ぐにわかったんですか?」

という問いが何人からもあったが、そこは相手はミステリー作家だ。そのあたりは少しぐらいはミステリー風が
あってもいいんじゃない? 謎は謎のままがいい。謎を解いたら面白くない。これからは神戸の街をサンシャインと
徘徊できないなあ。ダニーボーイ、メイホワ、ガスライト、将軍、アカデミー、道草、シュガーヒル、別館牡丹園、
楊貴妃陳さんと一緒に飲み歩いた店が走馬灯のように出てくる。

 

そうだ、宝塚歌劇も見れないかな? 後に星組のトップスターになる麻路さきという生徒が研3のときから、
サンシャインの気晴らしに宝塚歌劇の観劇に連れ出していた。そして終演後、生徒達と漫才のAスケBスケのBスケが
経営している、お好み焼きの「舞」という店で懇談したりした。思い返せば、サンシャインが宝塚を観劇し始めた頃、
お孫さんは4歳ぐらいであった。あるときサンシャインはそのお孫さんを連れて劇場に姿を現した。客席で見るにしても
小さすぎて前の人が邪魔で舞台が見えない。突然サンシャインは上着を丸めてお孫さんのお尻の下に敷いたのだ、
少しでも見やすいようにと。その姿を隣の席から見ていて、なんとなくほのぼのとした空気を感じた。何かそこには
おじいちゃんが孫に気を使うという、素顔のサンシャインの姿を見た。初めはお孫さん連れてきて、そのお守りに
大丈夫かなと危惧したが何の心配もなく劇場を後にしたのだ。今でも思い出すのは、片時もお孫さんの手を
離さなかったことだ。ぐっと握りっぱなしだった。きっとその時お孫さんの姿に娘さんの小さい頃が重なりあって
いたのかもしれない。そのお孫さんも結婚して赤ちゃんが生まれた。サンシャインのひ孫だ。

 

素顔のサンシャイン否、陳舜臣さんは、第1回目から参加されているのは大阪城ホールで年末に行う一万人の第九
コンサートだ。これに出ないと年末が来たという気がしないと発言するほど、参加することに最大の意義を
感じておられたようだ。それは日経新聞の『私の履歴書』にも書かれている通りだ。

サンシャインの運は強く、入院していた病院から自宅に帰られた数日後に阪神淡路大震災が発生した。
サンシャイン夫人はその時思わず体の不自由なサンシャインの上に覆いかぶさったと後に話されている。
地震の後、沖縄に避難されたサンシャインは海辺の砂浜で夫人の必死の回復を願うトレーニングが行われたらしい。
らしいというのは、その後、ハワイのビーチでその時のお話を聞いたからだ。阪神淡路大地震のあと、
年末の一万人の第九コンサートが開かれる事になり、病後の陳舜臣さんは出られるだろうか?ということになった。
さあどうだろうか? 

 

「震災の詩を陳さんに書いてもらえないかな?被災民だし」

こんな話が指揮者の山本直純さんから出た。被災民といえば我らも同じだ。この頃、戦友という言葉が生まれていた。
この大地震を共に味わった人は、一言で気持ちが合い通じるからだ。恐れもなく、サンシャインに「鎮魂の詩を
お願いしたい。年末の一万人の第九コンサートで冒頭読みたいので」と。数日後、ファクスで陳舜臣書く、
鎮魂の詩が送られてきた。皆さすがに感激の一瞬を感じた。原稿の字体は不自由な手で書かれているだけに、
その心の思いが原稿用紙から重く感じられた。

 

「阪神・淡路大震災 鎮魂詩 劫火(ごうか)を越えて」

                        陳舜臣

 とつぜん 天地が揺らぎ

 縦にそして横に 円をえがくように

 地鳴りは おそろしげにひびき

 地震と気づくいとまもなく

 あるものは 天の柱にとらえられ

 あるものは 地の渦に投げこまれ

 四方に降りそそぐ 破滅の矢を

 誰が逃れることができようか

 あるものは、 いとしい者のうえに

 おおいかぶさり 呼吸(いき)をともにし

 熱い血潮に明日をもとめ

 またあるものは その瞬間を氷にとざし

 天をこがす非情の炎を避け

 人のなさけを待つ

 人のなさけだけが 氷をとかし

 もとのすがたをあらわすだろう

 それをひたすら待とう

 まばたきするあいだに

 変わってしまった景色ではないか

 よみがえりの日まで待とう

 

 こよなくやさしい心から

 にじみ出たすずしいしらべ

 あの日 あなたと語り合ったのは

 あの瞬間の前だったのか後だったのか

 少年 少女の思い出は

 誰よりも心ときめく

 それは二度とかえらぬからこそ

 いつまでも光りかがやく

 笑いさざめく声にまじる

 兄の姉の、 そして弟の妹の声

 父母の声 いとしい者たちの声

 誰がその声を忘れることができようか

 いま私たちの世界は

 あなた方の世界の声をうけて

 しずかに よみがえりのしらべを

 そこにこめられた希望を

 魂をゆさぶるように胸をはり

 ゆっくりと それから次第に力強く

   劫火を越えて

   荒波を越えて

 

この詩を読んだ指揮者の山本直純はプログラムにこう書いている。

この度の「阪神淡路大震災」を受けて第13回一万人の第九も一時は開催を危ぶまれる状況でした。
けれども鎮魂とともに、復活への姿勢を示し、第九喜びの歌へ繋げていこうというコンセプトが決まり
再出発の道が開かれたのでした。秋も深まり、陳舜臣氏から『鎮魂 復活 希望』の詩が届き一読したおりは
単なるファンファーレではすまぬ、という想いにかられたのでした。こうして、吹奏楽、合唱、朗読が
オーケストラと一体となったミニオラトリオ『鎮魂 復活 希望』を企画したのです。
第一部を金管楽器群によるファンファーレとし、第二部は混声合唱と木管楽器群、第三部は大編成管弦楽部分。
朗読をはさみ、第四部はソリストを伴う合唱とオーケストラによる葬送行進曲。
更に第四部の前奏部として天国への道ゆき―Step for heaven―を書き加えました。

 

病後間もない陳舜臣さんはタキシード姿で、舞台で自分の鎮魂の詩の朗読を聞いてナーバスな気持ちに、
更に興奮が重なり、感激の気持ちと共に涙にくれた。あまりのエキサイトで倒れるのではないかと
心配するほどだった。山本直純は陳舜臣の書いた詩の心を読み取り、ミニオラトリオで総てを表現したのだ。
その山本直純さんは既に鬼籍へ。

山本直純さんは口には出さないが、心の中ではものすごくサンシャインを尊敬していた。

余談だが一万人の第九コンサートが終わり、酔いも回った頃、ホテルニューオータニのロビーにあるピアノの前に
座ると突然に弾きだした。深夜の演奏だ。後にも先にもこれ一度だけ。する事は突拍子ないが、心の中はほかほかだ。

 

昭和61年にサンシャインは講談社から陳舜臣全集を出版した。その第6回の時、全集の中に挟みこんである月報に
何か書いてくれないかとご託宣があった。その時の陳さんは「人に原稿頼むのは気持ちがいいなあ」と一言。
今考えると、かなり外交辞令的発言かもしれないが、陳さんの口からこうした言葉を聞くのは数少なかった。
そこで『タカラヅカと陳さん』という題でペラ4枚ぐらいの原稿を書いた。


タイトルは『タカラヅカと陳さん』

           
陳舜臣さんと私との共通点は互いに子年ということだけである。その子年、一回り違う。

陳さんのある意味での意外性を感じたのは、陳さんのお嬢さんの由果さんの事だった。

神戸で開かれた「ポートピア博」でコンパニオンとして働いていらした由果さんと偶然、会場内で会い
コンパニオンのユニフォーム姿で父娘の写真を撮った。この時の写真はご自宅の居間に飾ってあった。
その由果さんが結婚されることになったある夜、サンシャインの自宅近くのバー、寄り道という店で飲もうと
声がかかった。飲んでいて由果さんの事になると機嫌が悪い。「実は、祝いに老酒を壺でもらったんだが、
披露宴までに全部飲まないと戻ってくると言うんだ」と。「では、飲むのをお手伝いしましょう」

家にあると言うので瓶に詰めるよう夫人に電話した。この時、飲まないといけないんだと真面目な顔で言う
サンシャインを見て、これが花嫁の父なんだなと思い、「映画『花嫁の父』のスペンサー・トレイシーの
心境ですね」と言うとまた嫌な顔をした。愉快だったのは、由果さんが新婚旅行から伊丹空港に帰ってきて
出迎えのロビーに姿を見せると「由果!元気だった!」と新郎には見向きもしないで抱きついた姿は矢張り、
スペンサー・トレイシーだった。

その陳さんが宝塚歌劇とご縁が出来たのは鳳蘭のサヨナラ公演『白夜 わが愛』の舞台だった。
この時、私はテレビドキュメント『私は結婚したいー鳳蘭ー』という番組を制作しており、
陳さんにも鳳蘭についてのインタビューを観劇後、宝塚の花の道でお願いした。
その時、陳さんは鳳蘭に対して「『君子豹変』という言葉があり、日本人は悪い意味にとるけど、
本当は毛が抜け変わるたびに大きく成長していく事なのです。彼女にはそうした表現が
ぴったりだと思いますね。大きく育ってほしいですね」と語った。鳳蘭に期待する陳さんの温かい心情が、
その一言から強く感じられた。

その後暫らくして宝塚歌劇の舞台と陳さんのご縁が遠くなったある日、陳さんの知人で宝塚歌劇の星組に
在籍しているY明さんが、本公演中一回だけ若手だけで演じる新人公演の主役を演じることになった。
早速、陳さんに「観に行きましょう」と言うと、その公演当日は沖縄から帰ってくる日だとの事。
「では大阪空港から真直ぐ宝塚の劇場へいらしたらいいじゃないですか」と言うと、
陳さん、一寸困った顔をされた。
すると横で奥様が「行きましょうよ、観に行ってあげましょう」この一言で観劇は決まった。
運悪く当日は大雨だった。陳さんご夫妻は大阪空港からタクシーで宝塚に大劇場へ駆けつけ、
主役のY明に温かい拍手をおくった。

陳さんが宝塚の舞台を観劇する姿は実に天真爛漫である。客席から舞台の上の人に手を振ったり、拍手したり、
シャイと言われる陳さんにしては、これまた意外なほど大胆な光景が見られのもなかなか興味深いものである。

クリスマスに神戸で開かれた「鳳蘭クリスマス・ディナーショー」に鳳蘭、ツレちゃから陳さん夫妻は招待を受けた。
これには一寸した訳があった。というのは鳳蘭が宝塚歌劇を退団すると言う時、なんと「ツレづれ会」というのを
数人で作った。ツレちゃんを囲んで励まそうという会でそのメンバーの1人に陳さんも名を連ねており、
そのメンバーが招かれたのである。ショーが始まり、やがて舞台は盛り上がり、いつものようにツレちゃんが
舞台から降りテーブルを回り始めた。これはツレが得意とする客の膝の上で歌うという趣向で、
その第一発目が陳さんの膝の上となった。以前にも同じような事はあったが、その時はシャイな陳さん、
よりシャイな表情、ただにこにこしているだけだったが、このときは違ったのである。
ぐっとツレの腰に左手を回し、右手は肩を抱きしめ、歌う彼女をぐっと見つめる大演技となった。
でもその表情は「スペンサー・トレイシー」が漂っていた。優しい眼差しと優しい心をもった。

このとき同じテーブルで出会ったのが宝塚月組の娘役トップの、こだま愛さんだった。
陳さんの印象は「背の高さが合うからいいね」だった。

「陳さん、今度月組が映画の『哀愁』を舞台化することになり、こだま愛さんがマイラを演じます。
観にいきましょう」と久しぶりにお誘いした。当日、原稿の締め切りに追われる忙しい中を宝塚に駆けつけ
『哀愁』をご覧になった。そしてフィナーレに銀橋に並んだ、こだま愛にしっかり笑顔と拍手をおくった。
楽屋をたずねた陳さんは「熱演だったね」と優しい言葉をかけた。

〈スペンサー・トレイシー〉だとまた思った。

「花がいいかな、僕の色紙にしようか」という温かい心使いも陳さんは忘れなかった。

後日『欲書花片片寄朝雲』という中国の詩を書いた色紙を彼女にプレゼントした。

鳳蘭には力強い『君子豹変』という言葉を使って励まし、優しいショートケーキのような娘役には
『花片』という美しい響きを持った詩を贈られる陳舜臣さんは、やっぱりいつまでも優しい心を持った
花嫁の父であると私は思っている。

こんな文章を陳舜臣全集の昭和61年10月の月集に書いた。

宝塚歌劇の観劇、ミュージカル観劇も必ず陳夫人の強い一言があって実現した。

「観にいってあげましょうよ、行ったらどうです?」

宝塚歌劇観劇後は何処かでビールを飲んだ。いつしか花の道沿いにある、漫才のBスケの店「舞」に
行くようになった。カウンターの鉄板焼きお好みの店だ。生徒が頻繁に来る店で、舞のお母さんが認めると、
自分の名前入りの枡が置けた。何回か行くうちにガラス戸の中に陳舜臣と書かれた自筆の枡が目に付いた。
こんな所までサンシャインが出没しているとは、誰も知らない世界だった。
舞台を見て生徒に感想を言うにしても、その生徒のいいところを見つけ出して印象を言う。
サンシャインの言葉数は少ないが、そこには常に優しさが存在していた。

サンシャインが病に倒れて暫らくしてから、一冊の著書を頂いた。表紙を開くとサインがある。
その横に左手書きとある。左手で原稿を書こうと考えたがやっぱり何とかして右手で書く。
サンシャイン本来の芯の強い面が出た。

 

宝塚歌劇の星組のトップスターになった麻路さきの入団からトップまでの写真展を開く事になり、
オープニングに病まだ良好でないのに会場に駆けつけ、写真展のお祝いの挨拶をされた。
これも多分、サンシャイン夫人が多面的な場に行く事が体を元に戻すのにいい訓練だと考えられたものでは
なかっただろうか? リハビリだ。
努めて何でも一人でさせて、横から手伝わない主義だ。サンシャインもこれに耐えていた。

「頭の中の記憶が消えているかどうかが一番心配だった」とある時サンシャイン夫人はポツリともらした。

 

「ハワイに行きましょう。ハワイにはマグマがあり元気になる。ハワイの海水は微粒金属が含まれ、
羊水と同じと言われる。砂浜を一緒に歩きますよ。きっといいから」

その頃は関空から夕方の便でホノルルへ行く日本航空で、オールエコノミーのフライトがあった。
オールエコノミーといってもジャンボ機なので、二階席はビジネス席がそのまま使用されていた
。何とか航空会社にお願いして、体の不自由なサンシャインを後ろから押し上げて二階席へ、
そしてホノルルへと。1996年頃だ。
初めはホノルルの、ワイキキバニヤンを拠点にした。毎日ビーチを歩く。
サンシャインが水が怖い事を初めて知った。
波打ち際を歩いていても、押し寄せる波が来ると怖いのだ。波打ち際を歩くと足跡がつく、
それを見てサンシャイン夫人は叱咤した。

「親指に力が入っていないじゃないの。親指に力入れなくちゃ駄目」

波は怖い、サンシャイン夫人の叱咤も怖い? 気がつくとサンシャインの目には涙があった。
でもサンシャイン夫人の叱咤激励は止まない。こちらもサンシャインに声を出して、
1、2、1、2、左、右、左、右と。
いつしかこのリズムに足が合うようになり始める。
とにかく、左、右、左、右と。ビーチにいる白人は
温かな眼差しで見つめていた。

後の話だが、ホテルでサンシャインといたらプールサイドにいた白人女性に呼ばれた。

何かと思い近づくと「あなたのお父さん?」と聞かれた。その話をサンシャインにしたら、
珍しく本気でいやな顔を見せた。

 

1997年6月2日、JL088便・関空発21時の機材が変更になり、DC―10型機だと連絡があり、
これだと所謂ビジネス席がついてない、全エコノミー席だ。担当者も困り、最前列の席を横になっていけるように
押さえましたと。が最前列は椅子の肘掛が固定されていて、動かす事ができない。
慌てて2列目を押さえてサンシャインが横になれる態勢を作る。

午前8時45分、晴天のホノルル空港に到着。迎えの人が気をきかせて、昼食はうどんだ。
サンシャインの食欲はすごい。サンシャイン夫人が「食べすぎなのです、この人は」と苦い顔を。
翌日から、サンシャインのリハビリ兼ねたトレーニングがサンシャイン夫人のもと、始まる。
バニヤンから歩いてビーチへ、そこで履物を脱ぎ、裸足になり波打ち際を歩くのだ。
Tシャツ、短パン姿でサンシャインは足元を打ち寄せる波でとられるのを、こわごわと。
サンシャイン夫人はそんなのお構いなくどんどんと先に行く。後にサンシャイン夫人が

「私のこと、鬼婆といわれたんですよ。でも必死でこの人を歩けるようにしないといけないでしょう? 
だから沖縄の海岸で砂浜がいいというので歩かせたの」と。

何処に行くにも、信号を渡るにも、車に乗るときでも、サンシャインには手をかさない。

もし誰かが心配して手を出そうとすると「ほっといてください、自分でしますから」と

サンシャイン夫人は冷たく?厳しく言い放った。横で見ていても、この一見冷たく見える夫人の態度も
サンシャイン自身には、リハビリのためのものと理解しきっているという感じが受け取れた。
お供をして歩くときはいつも、あたりかまわず声をかけた。

先生、右、左。右。左。1、2、1、2。

先生、手を振って、手を。

その都度、サンシャインは「はいっ、はいっ」と返事は素晴らしい。
しばらくは手を振り、足を大きく前に出すのだが、振り返ると元のばらばらのリズムに戻っていた。

こんなことがホノルルの海岸であった。砂浜からコンクリートの防波堤が沖合いに向かって造られており、
サンシャイン夫人があの人は怖がりだから砂浜の所に置いときましょうといい、我々だけで、沖合いに続く道を
歩いていた。サンシャインは来たいけど怖いしで、ビーチの所でうろうろと。突然、白人女性の大声が聞こえた。
何かこちらに向かって怒鳴っている、横にはサンシャインがいる。思わずはっとした。
こんな体の不自由な人を1人で置き去りにしてるとはけしからんと、お怒りなのだ。
「えらいこっちゃ」と思わず。米国ではこんな状況を見ると、放置していると取られて訴えられるのだ。
慌ててサンシャインのところに戻った。夫人は「君がこんな所でうろうろするからいけないのよ」と、お叱りを。
サンシャインは「あの白人のご婦人が勝手に怒鳴っているんだよ」と、平然と。少々のことでは驚かないのが、
サンシャインの凄いところだ。泰然自若とした態度が。お二人の関係なんとなく、やじろべえを思い出した。
でもここは米国だ。「今後は注意しないといけませんね」と夫人に。

 

1997年頃のハワイはまだ昔の雰囲気が残っていた。7月4日は独立記念日で、知人のヨットハーバータワーの
31階から花火大会を見物。イオラニ宮殿をボランティアで日本語ツアーをしていた、ベト山内(ヤマノウチ)さんが
、サンシャインはじめ皆を招待してくれて
特別に案内を。入館料が7ドルだった。山内さんは元共同通信の特派員をした人で、ボランテイアで案内人を
しているが、日本の若者は説明を聞かないとこぼしていた。朝食はカイマナビーチホテルでの大きな木の下で朝食を。
この木、ガジュマルの樹の下でジョージ・スティーブンソンが『宝島』を書いた。サンシャインもこの木の下で
新聞社からの依頼原稿を書いた。

 

ハワイアンで有名なクポポをシェラトンホテルのプールサイドに聞きに。日本の本屋の文文堂を見学、
カピオラニ公園で朝にある無料コダックフラショーを見にと、いろいろいいものがある時だった。
サンシャインのビーチでのトレーニングは、毎朝続いた。ミネラル水をサンシャイン夫人が持ち、
サンシャインがその後を。難しいのは、横断歩道を渡るときに車が怖いので、どうしても信号待ちの時
後ろのほうで待つ。その為信号が変りスタートが遅れることだ。サンシャイン夫人に「もっと前に来なさい、
心配ないから」と言われても、サンシャインは怖がる? 杖を突いていたらこちらの人は注意してくれるし、
車も止まるからと話しても、怖がりサンシャインは怖いのだ。ビーチの一箇所、波が来ないように囲ってあり、
丁度いいので胸まで海水につかろうとサンシャインの手を引いて深いほうに誘導し始めたが、
水が怖いサンシャインは中々足が先に進まない。サンシャイン夫人が、この人は怖がりだからと苦笑。
サンシャインが握り締める手の力は海の中で必死さを感じた。でもこの海水が体にいいのだから、
白人の体の悪い人は終始海の中に座っていた。

ビーチでのサンシャインへの右左右左の掛け声は続いた。時々、サンシャイン夫人が水際の足跡を見て
「親指に力が入っていないですよ、指の跡がないじゃない」と叱咤激励の声が。時々息が苦しそうにすると、
夫人が「口で息を吸うから苦しいのよ、鼻で呼吸しなさい」と。「こんな息の吸い方するから時々この人
酸欠起こすの」と。それに対してサンシャインは「はい、はい」と答えては、じっと夫人の顔色を伺う風の表情が
砂浜でのリハビリへ対しての執念を感じるのであった。

この頃は、これだけ歩くと矢張りかなり疲労する様子で、昼寝をする時間があった。
ある日、ハワイ州の経済観光局長の納谷さんと会う約束をしていたが、その直前にマッサージをしてしまった。
そのまま納谷さんを訪問。オフィスで喋っているうちに、サンシャイン、こっくりをはじめた。
眠いものはしょうがない。目は覚めない。ビーチ歩きは続くがサンシャインの表情は、まだ昔の表情には
程遠いと思った。でも、顔の艶はハワイ焼けに。

8月になり、いつも観劇している星組の麻路さきの公演が東京宝塚劇場で。
これにあわせて、麻路さき著のエッセイ『deja vuマリコのフリートーク』を。
これに麻路さきの入団時から私が撮った写真を使い、本にしたのでその出版の会が日本外国特派員協会、
通称・外国人記者クラブで開かれる事に。ハワイ焼けのサンシャインも出席、元気にスピーチを。

「先日テレビに出たのを見た人が、陳さん元気になりましたねと。どうもテレビやこのような場所に出ると
元気になるみたいです」

この年の11月に宝塚観劇の折に、サンシャインに

「ハワイに『陳舜臣文庫』つくりませんか」と提案。

「うん いいよ」

短いながら重厚な返事が。返事の短いのはサンシャインの特徴だ。

早速、KZOOハワイ日本語放送局で番組を持つ元アナウンサーの沖葉子さんと、後に日系人連合協会の会長を
務めたハワイ在住40数年の遠藤吉実さんに相談。セントラルパシフィック銀行の齋藤譲一会長に、
陳舜臣文庫設立実行委員長をお願い、ハワイ天理文化センター内の天理文庫に場所を決めた。
開設時期は1998年2月初め。サンシャイン夫人の大協力もあり、大型段ボール箱5箱にサンシャインの著書が
詰まった。これを持参でホノルルへだ。税関対策もいる、地元のメディアにもPRがいる。この辺は沖さんが手配を。
この時、偶然にもワイキキのホテルの中にある和食の店「義経」の経営者・山崎さんがサンシャィンのファンと知る。
ホノルル税関にも日本航空から依頼して、かなりの量の本を持参するが、著名な作家・陳舜臣が文庫を作るので、
本を売るわけではない旨の話を通しておいて貰う。当日いざ通関のときに、あわててサンシャインのパスポートを
見せて通関するのを自分のパスポートを見せて折角の事前の手配も何処へやら。それでも無事ホノルルへ
著書110冊持ち込み成功。陳舜臣文庫開設に当たり、事前に華を添える意味も含めて、麻路さきを招待。
開設前日に齋藤譲一開設実行委員長のお招きで「北京」で夕食会を。サンシャイン夫妻はじめ、麻路さき、沖さんらが
顔をそろえる。齋藤夫人は宝塚歌劇ファンだけに麻路さきを見て大感激。

 

1998年1月30日、天理文化センター内の天理文庫で『陳舜臣文庫』開設セレモニー開催。
ハワイ州経済観光局長納谷さんら107人が出席。陳さんから110冊の著書の贈呈式があり、
齋藤実行委員長の挨拶、天理文庫の中尾善宣さんの挨拶、病後初めてのサンシャインが『私とハワイ』という題で
記念講演と豪華に進み、最後はお茶で懇談となる。サンシャインの話は、今やボーダーレスの時代だと言うのが
主テーマだった。

「ボーダーレスという言葉を使いたかったのは、だんだん世界がボーダーレスになっていくということを
言いたかった。ハワイはボーダーレスという視点からみると最高の場所です。先日NHKから孫文について
ハワイを取材してくれないかという申し出がありました。私にとってはもう一つハワイに関する宿題が
出来たようなものです」

記念講演の全文はEastWEST JOURNAL(イーストウエストジャーナル日本語新聞)の1998年2月15日号に
掲載された。日本で考えられない講演がハワイで出来た。幻の講演かもしれない。陳舜臣文庫開設に当たり、
ご本人は次のような文章書かれた。

 

「日本語はある程度国際化し、海外に出た日本人だけでなく、日本の文化を知りたい外国人にも学ばれるように
なった。日本の文化一般だけでなく、特に日本人が活躍する経済、技術方面にも関心が向けられるようになった。
同時に、日本とある程度古典を共有する中国について、日本語の文献はきわめて多く私の著書なども
なにかの役に立てればよいと願っている。ハワイは、中国人が国父と尊敬する孫文が少年時代を
すごした土地でもある。日本語を通じて中国を理解することも一つの国際理解の道といえるのではないだろうか。
一人でも多くの国際人が、このハワイから育ってほしい。過去の多くの国際トラブルが相互理解の欠如から
おこっている。もし私の作品がすこしでも友好をはぐくむ種になればどんなにうれしいことだろう。
ささやかな夢が叶えられることを祈っている。」

 

この頃、ワイキキバニヤンのそばに「満里」という美味な中華店があり、好んでここを愛用した。
更には、毎朝の日課であるビーチ歩きが功を奏したかサンシャインの表情が次第に豊かになってきた。
でも怖がりは一向に変らない。サンシャインから、片時として目が離せない夫人の気苦労は押して知るべしなり。
休むときなしという感じ。

「シャツ中に入れてください」「杖は?」「又同じもの着てるの? これに着替えて」

「あなたは遅いから先に行っててください」「部屋の鍵は持ちましたか?」

「ベルトをちゃんとしてください」

サンシャインの返事は何時もいい。「ハイっ」

サンシャインの食欲は盛んで何でも食べる。

「どうですか?」

サンシャイン「美味しい」「美味しいのは判ってます。もう少し文学的表現で?」
サンシャイン夫人「美味しいんですか?」でも矢張り「美味しい」の一言で終る。
サンシャイン夫人「本当にこの人とご飯食べてると会話がないんだから」と、一言。

小津映画の夫婦の会話を思い出す雰囲気だ。

実はこのお二人は「食」を愛してやまない夫と妻。味覚に妙な講釈はいらない、誰もが食べられるものを
おいしくいただきたいと『美味方丈記』という食べ物の本を共著で出している。

ワイキキビーチだけでは厭きるので、カハラマンダリンホテルのビーチへ。ここは引き潮のときは沖合いまで、
おへそぐらいの深さで歩いていける。サンシャインを早速沖合いへと。でも少し行った所でもういいと一言、
動かない。矢張り怖いんだ。夫人が、本当にこの人は怖がりなんだから。マグマを吸収したサンシャインの顔色は
日焼けして、ハワイの一世のおじさんという感じになっていた。

 

サンシャインは1924年2月18日生まれ。舜臣の舜は中国の神話に出てくる君主、五帝の一人で聖人と
あがめられた人の名。ある日こんな質問をサンシャインに。

「60歳の頃は何を書かれましたか?」

「諸葛孔明だよ」

今の60歳代はもっと頑張らなくちゃ。そう言えば、NHKのドラマを書かれる直前に、神戸で飲みながら
「今度書くんだが、沖縄の話はどうだろうか」と、ぽっと、つぶやかれた。「中国の話が多いから、
たまにはいいんではないですか」と言うと「こんな物語なんだよ」と、またぽっと話された。
『琉球の風』の時だった。

 

1993年に朝日賞を受賞された時、祝いの会を開くので仕切って欲しいと。

「でもこれ、朝日新聞でしょう?」

「いやいいんだよ。まかせるから」

で、神戸の生田会館で開催。お祝いの一言を述べる司馬遼太郎さんにエレベーターの中で
「挨拶は短めにお願いします」と。横からサンシャイン夫人が「何言ってるのあんた、そんなこと言ったら
失礼じゃないですか」と。ここがサンシャインと司馬さんの間柄か?

司馬さんの挨拶

「陳さんは神戸に共和国があると思っているらしく神戸が大好きだ。その共和国でお祝いの会があるというので
体調を整え来た。陳さんは『風騒集』という詩の本を出されたが〈この本は陳さん還暦記念に出した本〉と、
この本の中に書いてある回顧の部分に光をあて、若い時から文学を志したが戦争などで瞬く間に若い時代は過ぎた。
そして誰の心の中にはまだ刻まれていない碑がある。そこに我が思いを心中に文字で刻みたいと、
どう見ても陳さんはエネルギッシュでなく風に吹かれてるみたいだが、どうもこれから物凄いことをしようと
考えているみたいだ。これからが本当の陳さんが出て来るようで、恐ろしい人です」

司馬さんの挨拶は長くはなかった。語る内容は親友を励ます熱い言葉だった。

 

風騒という言葉は、詩を書くことが好きだという意味だ。1984年2月18日60歳の誕生日が発行日だ。
還暦記念に作ったのだ。この席に、宝塚歌劇トップスターの涼風真世と麻路さきが来てくれた。
そしてサンシャインの為に麻路がピアノで、涼風が歌うという豪華プレゼントを。
朝日新聞の宝塚歌劇担当者が朝日新聞の主催者に「こんな顔ぶれは普通は呼べません」と。
サンシャインの心温かな人柄が、硬い雰囲気の会場をほんわかムードにすり替えていた。

そういえば、朝日新聞の学芸部長が挨拶で「どこに行くのも、外国に行くのも、いつも横には奥様がご一緒だ」と。
その後、発病で今度は常に一緒でないといけないことになる予言的発言だった?

そういえば以前に「『ベルサイユのばら』は宝塚歌劇の何?」という質問に「タカラヅカの忠臣蔵」と。
そして、こんな文も。

『宝塚は毎日が黄道吉日、太陽が運行する円、春分をゼロとして今274度 
毎日同じしあわせ TAKARAZUKA 1984年12月26日 陳舜臣』

 

サンシャインが、入団間もない頃から舞台を見つめている麻路さきが写真集を出す時、サンシャインは、
こんな言葉を彼女に贈った。

『麻路さきの雰囲気には陰翳がある。容姿だけではなく、その演技も平板ではなく、奥行きと広がりが
あることにほかならない。彼女の男姿は、端正でありながらどこかくずれた面をのぞかせ、
明朗洒脱とみえて愁いを含む表情をまじえることができる。貴族、紳士、軍人、ギャング、スパイ、芸術家
すべて彼女の芸域内にある。それだけに私は、彼女を使いこなすのは容易ではないと心配している。
一流の本と演出家による、彼女のさらなる成長がたのしみである。』

 

そして宝塚を卒業する時、彼女にこんな書を餞に贈っている。

『同為逆旅客人生離合多』

長年の付き合いの中での寂しさが感じられる言葉だ。ある時、観劇後サンシャインに舞台の感想を聞いた。
答えは簡単だった。

「わかりやすい物語で、きれいでしたね」

麻路さきの最後のさよなら舞台の『皇帝』は、東京宝塚劇場建替えのため、
仮設劇場の1列41番でサンシャインは見た。

 

サンシャインのハワイでのリハビリを兼ねた滞在は順調に進んだ。
偶然、裏千家経営の最もハワイらしい木造二階建ての築60年以上は経つ「ザ・ブレーカーズ・ホテル」を知り、
以来ここが定宿に。早朝ホノルルへ到着しても何の心配なく部屋へ。しかもエレベーターが不要だから
まさにサンシャイン向きだ。偶然にもここの前支配人が陳舜臣ファン。
ジェネラルマネージャーのエセルさんも旅館の女将的感じの人だ

ビーチも近く、サンシャイン夫人の指導の下、早朝太陽が強くなる前に、ビーチを歩くこと片道30分。
ホテルに帰り着くと、シャワーを浴びて朝食というスケジュール。

 

サンシャインは思わず納得を通り越すような発言をする時がある。

ハワイのビーチウォーク通りにある、ザ・ブレーカーズ・ホテルのプールサイドで一人風に吹かれていた。

「何されているんですか?」

「うん 頭の中のごみを、掃除してるんだ」

それを聞いた時、その昔神戸のバーで飲んでいる時に「人の話をメモしておかないと、またふと目が覚めたときに、
いい考えがあるときがある。そんな時、紙にメモしないと忘れてしまう」というような会話をした。
その時、サンシャインは「後で思い出さないようなものは、ろくでもない考えだよ」と一蹴。
頭の中のごみを掃除しているという返事を聞いた時、はっと思い出した。
まさにたまには頭の中のいらないものは捨てるべきだと。しかし凡人は捨てるものがない。
サンシャインのものの考え方の合理的で素晴らしさを少しわかった気がした。

「趣味は何ですか」と聞いた時の答えは「本を読むこと」の一言。そして陳舜臣文庫開設5周年の時、
文庫で懇話会を開催。その時サンシャインは「まだまだ書きたいものが山ほどあり、
いてもたっていられない気持ちだ」と興奮気味に語った。

 

サンシャイン夫人はフラダンスに新境地を見出し、ハワイでフラダンスの専門店で買い物をする段になり
「店の中のものを見るのもいいのよ」とサンシャインに。それでも、トンと興味のないサンシャインは
入り口のところにあったソファーに座り込んでいた。

「先生、見ませんか」という質問にサンシャインは黙って首を振った。本当に嫌という表情を見せていた。
でも買い物をする夫人の姿を見る目つきは穏やかな優しい目線だった。
ハワイのザ・ブレーカーズ・ホテルのプールサイドでサンシャイン一人になり、ふと夫人の姿がないと、
どこに行ったという不審そうな不安そうな顔つきをされる。どこどこにいるというと、安堵の顔つきに戻る。

「先生、奥様が先に往かれたらどうします?」

強い口調で「困る」の一言がおおむ返しに即答だった。サンシャイン夫人は、それを聞いていて、
にやにやの表情。サンシャインは本当にサンシャイン夫人を頼りにしすぎるほど頼りにしているのが滲み出ていた。

何人かで食事をするとき、気を使いサンシャインの横に夫人をというと「隣はいいです」と本気か本気でないかは
不明な感じの発言が、ご夫婦の絆を感じさせた。

ハワイで常時サンシャインが持たされているものは、部屋の鍵と5ドル紙幣、後に5ドルでは、と
10ドルに値上げした。一人で何かあった時にタクシーに乗れるようにだ。

これもサンシャインから、無一文では不安だと夫人に進言してそうなった記憶がある。

 

2001年7月ハワイ伝道庁の前庁長の吉川さんから、一度天理へというお誘いがサンシャインに。
天理教の夏のお祭り「おじば帰り」というのがあり、サンシャインご夫妻に随行。用意して迎賓館を
表頭領他の顔ぶれで迎えられる。ここには古い中国の古い看板など珍しい物が蒐集されているので、
サンシャイン興味深く見学。帰りに奈良の興福寺の南円堂に、ここにサンシャインが頼まれて書いた観音讃がある。

ある時、ハワイで暗闇を歩く時サンシャインの異変に? 異変というと大袈裟だが、よく本を読んでいるとき、
片目をつぶって読んでいる。この方が読みやすいからだと? その内に暗闇の道を歩く時になると、
足元が見えにくいのか?足元がおぼつかないのか?突然にパニック状態に、そして怖がるようになった。
前から鳥目だからと、否今の時代、鳥目はありません。一度天理の病院で目を見てもらいましょう。
目は天理というからと。結果は白内障で天理の憩いの家病院で手術となる。
怖がりのサンシャイン無事手術は終了。眼帯をはずした第一声は夫人の顔をみて

「しわが多いなあ」

で、夫人「びっくりするでしょう?この人の発言には」と。サンシャインは照れ苦笑、何か言おうと口元は
動いたが言葉は出てこなかった。それからは、めがねはどこという台詞はサンシャインからはなくなり、
顔にあった?眼鏡も姿を消した。そういえば、サンシャイン夫人がよくぼやいていたのは、
すぐに物をなくすことだそうだ。きっちりと腕時計でも締め付けてるのが嫌らしい。
そこで緩々にしてるうちに、どこかに落として?紛失。ズボンに下げて使える時計があり、差し上げると
しばらく使われていた。物を書かれたり、講演したりすると物凄い量の言葉を発するのに、
普段はほとんど言葉がない?サンシャイン夫人「一日中しゃべらない時があるのよ、この人何もいわないから」

 

日経新聞の『私の経歴書』を書かれている時「もう少し奥様のこと書かれたらいいのに。

沖縄でのリハビリで、鬼婆と言われた話とか」というと、サンシャイン夫人
「そうなの。この人、原稿見せてくれないですよ」
今回は?いささか、ご不満そうな表情、否本当の表情かもと思ったりした。
夫人の行動はいつもサンシャインが気持ちよく原稿が書ける状態を作り出す苦労がにじみ出ていた。
以前に一五代仁左衛門さんの夫人、博江さんが言っていた
「この人はお芝居のことだけ考えていたらいいの。ほかの事はこちらが全部するのだから。
それが役者の女房」という言葉を思い出した。

2003年9月3日に天理文化センターに開設した『陳舜臣文庫』も5周年を迎えた。

そこで体にさわりがないように『陳舜臣先生と懇話会』という形で記念の会を開催。
集まった40人あまりを前に久々サンシャインの熱弁が来館者の心を癒した。

この時のサンシャインの話

「10年ばかり前、脳内出血で倒れ右半身が不自由になり今は一日3、4枚が限度です。

もっと書いていた頃は書くスピードが早く頭が付いていきませんでしたが、今は頭と書くスピードが
ちょうどマッチしてます」

「三国志に曹操という英雄が出てきますが、曹操を含めた曹一族について書いてみたいと思います」

出席者からの、ハワイでどう過ごしているかには

「ハワイは毎年来ていますが、ただぼんやり過ごしています。午前中は家内に連れられるようにして
ビーチを歩いています。リハビリのようなものです。まだまだ書きたいものがたくさんあるので、
元気にならなければと思っています」

陳舜臣をまじかで見れたこと、話が聞けたことで出席者は皆興奮していた。
一番興奮していたのは、サンシャインだった。文庫開設についで、二回目の幻の講演だったからだ。

話が佳境に入ると興奮気味のサンシャインを夫人はそばで心配そうな顔つきで見守っているのが印象的だった。
ここにある天理文庫は当初は来館者もわずかだったそうだが、陳舜臣文庫をつくり、
さらにタカラヅカ・レヴュー・ライブラリーを開設したら、毎日来館者が60人ぐらいに増えたとの事。

文庫開設に地味ながら尽力した天理文庫の中尾善宣さんは、柳行李一つで50数年前、船でハワイへきて
布教活動され、文学に志して、陳舜臣ファンだけにサンシャインには絶大な尊敬の心を持ち合わせているだけに、
5周年は感激ひとしおの様子。天理教ハワイ伝道庁50年史を執筆することをサンシャインに。
また5周年記念懇話会でのサンシャインの発言はハワイの日本語新聞『イーストウエストジャーナル誌』
永井雄治社長が収録、新聞に掲載。日本語放送のラジオ局K‐JAPANの富田いく子さんの
「この方とコーヒーをもう一杯」という番組にもたびたび出演した。

 

ハワイで見る、このころのサンシャインは、どう見てもハワイの一世という感じ。
やはりなんとなく、マグマの威力を感じた。サンシャイン夫人の果てしないサンシャインへの献身度は変わらず、
早朝ビーチを歩くひたすら歩く。これもサンシャインの回復を目指しての願いがこめられていたのだ。
ここまで回復するのに鬼婆といわれた話、でもそれをしなければ、サンシャインはここまで
回復しなかったかもしれない。そばで見ていて、夫人の気が休まるときがない事を更に実感した。
なんとなく皆さんは、サンシャインなので遠慮気味。でも横で見ていると、つい気合入り、
先生、足、右左、右左とまたは1、2、1、2、と声を出してサンシャインに奮起を求めた。
車に乗るとき、室内に入るとき、エレベーターに乗るとき必要最低限の介添えを。
サンシャインの心の素晴らしいのは、その都度「ありがとうございます」と丁寧にお礼の言葉を
口にされることだった。
『風騒詩』の中の回顧の『少小風騒値乱離』のくだりを、今のサンシャイン再度思われているかもしれない、
勝手にそう思った。

 

ハワイのザ・ブレイカーズ・ホテルのプールサイドの片隅をプールサイドバーと勝手に名付けた。
そこでそよ風に吹かれてビールをたしなむのが最高の癒しに通じ、最高の贅沢と感じている。異空間なのだ。
この空間がワイキキのこんなところにあることは、ワイキキに住んでいる人でも知らない。
異空間、英語で何ていうんだろう? 疑問はハワイの友人のカマアイナ〈ハワイローカル〉のロダンが教えてくれた。

「サスペンデット・エリアだよ」

つまり真空状態のような感じの場所という表現だ。

この異空間で偶然にも、一組の米国人夫婦と知り合った。彼らが陳さんの名前をサンシャインと名付けたのだ。
Mr.Leonard Ciserello〈レオナルド・シセレロ〉とMs.Carla Ciserello〈カーラ・シセレロ〉。
お祖父さんがイタリアから米国へ来たそうだ。プールサイドバーで一人で飲んでいるとき、
隣の椅子にレオナルドが座ったところから付き合いは始まる。
カリフォルニアのローダイ〈LODI〉でワインの仕事をしている。
彼らと何か空気が同調したように感じた。先方もそうだったかも知れない。
滞在中にビーフライスを作ってご馳走したら、日本食と思い美味しいと、それが印象に残ったようだ。

日本にいらっしゃいとEメールしたが、カーラ夫人が長時間のフライトが苦手とか。たまたま米国中西北部を
旅する機会があり、サンフランシスコに行くというと、ローダイから渋滞の中、5時間かけて
サンフランシスコまで会いに来てくれた。レオナルドは1943年生まれ、カーラは1949年生まれだ。

翌年、「サンシャインとハワイに行く」というEメールを出すと「同じ時期に合流したい」と返事が来た。
そして「サンシャインは誰?」と聞くので「日本の有名な小説家だ」と返事をした。
やがてレオナルドからEメールが来た。インターネットでサンシャインの英訳された本を2冊見つけ購入したと、
会うのが楽しみだと。

 

2007年6月ハワイに陳舜臣文庫を創設して10年目を迎えた年だ。関空発のUA832便のキャビンには
サンシャイン夫妻の姿があった。陳舜臣文庫10周年だから、お祝いを現地でしましょうという声賭けに
応じていただいたのだ。6月4日午前8時前にホノルル空港に到着。ボランティアの押す車椅子で入国審査所へ。
83歳を超えているサンシャインは入国の際の写真撮影、指紋採取は免除だ。免除は80歳から。
個人旅行者出口から外に出ると、天理文庫の中尾さんがサンシャイン夫妻にレイを贈った。

10年目を祝う会は夏の家で斉藤譲一夫妻、天理教ハワイ伝道庁浜田道仁庁長夫妻、天理文庫の中尾善宣長老、
イーストウエストジャーナルの永井雄治社長、サンシャイン夫妻、と小生だ。夏の家は真珠湾攻撃するときに、
日本の諜報員が秘かに、ここの2階の大広間から真珠湾が見下ろせるので、昼間に毎日ここで酒を飲み
遊んでいる振りをして、
入港する軍艦の数を日本に打電していたところなのだ。
なにかそんな曰く因縁があるところで、ミステリー作家の陳舜臣文庫の10周年をしたかったのだ。
日が暮れて祝い酒でまどろんだ目に眼下に見えるワイキキの明かりが、10周年を祝う花火の様に美しく見えた。
天理文庫の中尾さんは感激の酒でほとんど記憶がないと翌日秘かに告白した。

 

イーストウエストジャーナルは6月15日号でこう伝えている。

見出しは次の通り

ハワイ天理文庫の『陳舜臣文庫』10周年

叢書増え続け、250冊に

「ハワイ天理文庫にミステリー小説及び中国歴史小説で、江戸川乱歩賞、直木賞など受賞している陳舜臣さんの
『陳舜臣文庫』が設置されて、今年で10周年を迎えた。いまも精力的に執筆される陳先生の作品は年を追って
増え続け、その数は約250冊になっている。去る6月5日、陳先生ご夫妻のハワイ滞在を機に、
天理教ハワイ伝道庁長・浜田道仁夫妻の招待により陳先生を囲む夕べが夏の家において催された。

この会には陳先生の友人、同文庫の開設に尽力された宮田達夫氏〈元毎日放送〉、斉藤譲一夫妻〈元CPB会長〉、
中尾善宣氏〈ハワイ天理文庫〉が参集。陳先生の近況などを中心に歓談が行われた。ハワイ天理文庫には4万冊に
及ぶハワイ最大の日本の図書、日本人移民に関する蔵書があり無料で貸し出されている」

 

陳舜臣文庫の本が増えることは、サンシャインが順調に回復していることを物語るものだ。

レオナルドとカーラは作家の陳舜臣を紹介され、興奮の渦巻きの中にいるようだった。

サンシャインの著書を英語訳された『The taiping rebellion〈太平天国〉』と『Murder in a peking studio』の二冊、
中古で見つけた本を抱えていた。あらかじめEメールで「本を持参なさい、サンシャインにサインしてもらいましょう」
といっておいたので。早々にサンシャインにサインをしてもらった。驚いたことにレオナルドは730ページの本を、
プールサイドでゆったりしているサンシャインの横で読破してしまった事だ。

ローダイに帰れば皆にこの話、サンシャインに会ったことを話すんだ」と誇らしげに話した。
振り返ればここでもサンシャインが書いた風騒の中の回顧の、深く心中の無字碑に鋳せん。
とあるがレオナルドの心の中にも刻み込んだのだから、目的の一つは達せられているのではないだろうか? 
丁度サンシャインが『論語抄』4を書かれた時だ。論語はサンシャインにはバイブルみたいなものではないだろうか?

 

ハワイで『論語抄』が話題になった時、英語でなんていうのだろうということになり、天理文庫で働いていた
日系4世のリサが「The Analeck of Confucius-one of the four books chinese thougt」と答えをくれた。
そういえば、レオナルドにサンシャインを紹介したとき「英語の先生をしていたから英語わかります」と言うと、
「ノーノー」と笑いながら首を横に振ったが、レオナルドはお構いなく英語で話しかけていた。
レオナルドは何回も聞きに来た。

チンシュンチン? チュンチュン? チンシュンシンシュンシン? シュンシュン?

肩をすぼめた。言いやすい、いい名前考えよう。レオナルドの発案だ。しばらくして、こんなのはどうだろうかと。

「サンシャインは?」

素晴らしい。即座にホテル中に新しい名前が伝達された。
「サンシャイン」という名前はハワイでこうして誕生したのだ。

プールを真ん中にそれを囲んで客室があるザ・ブレーカーズ・ホテルの中ではサンシャインは注目の人と
なっていた。ホテルの中で白人のゲストと会うと「グッドモーニング」と笑顔で左手をかざすのが
サンシャインの、いつもの素顔のままにだ。
このホテルにもプールサイドに蛸の樹という大きな育ちの早い樹がある。
サンシャインはよくこの樹の下で読書をするのが楽しみの一つだ。

 

陳舜臣文庫開設10周年を済ませて、関西に帰国するのでホノルル空港の検査所の金属探知機を車椅子で
くぐろうとしてストップがかかった。ポケットの物を出して、ベルトをはずして何回しても
金属探知機が鳴り通過できない。後で聞くと、ホテルのルームキーを返却するのを忘れてポケットの中に。
それが原因だった。サンシャインに夫人がその後、何を言ったかは大方の察しはついた。
夫人の気苦労は何処までも続くのである。

 

サンシャインの喋りは短い事で知られているが、短いほうがわかりやすい場合がある。

阪神淡路大震災以前の良き時代の神戸の物語を書こうとして、なかなか上手くまとまらない。
そんな話をすると、さりげなく「まとめて書こうとするからいけない、個別に書いたらいいんだ」。こ
の一言で『五線紙の街』という物語を書き上げることが出来た。

さりげない一言、サンシャインの絶妙さは短い一言にあると言えるのだ。

素顔のままに、Mr.Sunshine 実はChin Shunshin

爽やかな名前を命名したのは、Mr.Reonard Ciserelloだ。

2007年12月18日に友人のフランス人の経営しているビストロ「AU LIMO」店で久々に食事をして、
いつもの様に写真を撮った。心なしかサンシャインが小さく見えた。

 

2008年1月自宅からサンシャインを乗せた救急車が病院に向かった。詳細はオール読物6月号に
『近ごろ思うこと』という題でご本人が書いている。今回は左側で嚥下障害が起こったのだ。
かいつまんで、近ごろ思うことの内容を書くと、今回は出血は少量だが栄養は鼻から管でとり、物言うのもつらい。
でも頭の中の引き出しは無事で、頭の中で浮かんだ人から物語を書いてくれとせがまれている。
私しか書けない人物はまだ大勢いる。口述筆記を試みた。新しい経験だ。左手が思うようにいかない。
作家として最後の仕上げが出来ないのは辛い。リハビリは辛いが家族の支えのもと、やりとげよう。
84歳の高齢だからと甘えずに。以上が大筋の内容だ。

 

『近ごろ思うこと』を読んで、朝日賞受賞パーティのときの司馬さんの挨拶を再度思い出した。

「自分は小説を書くのをやめたが、風に吹かれそうな陳さんはこれからどえらい事をするのではないだろうか?」

司馬さんはそう言った。

サンシャインは右手が左手が不自由でも司馬さんの言うとおり、まだまだこれから、どえらい事をしようと
している。その証拠には、私しか書けない人物はまだまだ大勢いると書いているからだ。
60才のとき出した『風騒集』の回顧の中で、誰の心の中にも刻まれてない碑がある、
そこにわが思いを刻みたい。この気持ちがいまだあるのだ。きついリハビリを乗り越えないと、
心中の碑に刻めないからだ。

 

近ごろ思うことを今回書くにあたり、サンシャインは最愛の娘、由果さんが口述筆記をして、
それを由果さんの娘さん、つまり、お孫さんが清書したというエピソードがある。
だからこそ、家族の支えのもとやり遂げようという意気込みが存在するのだ。

すぐにまたハワイのビーチを夫人に叱咤されながら歩いているサンシャインの姿を見れる日を、
レオナルドもカーラも楽しみにしているだろう。名づけ親なのだから。少なくとも、彼らの心中の碑には、
サンシャインの思いは刻みつけられているのだ。

陳舜臣さんの夫人とのハワイでの療養は天理文庫に開設した「陳舜臣文庫」十周年を迎えて夏の家で
齋藤譲一夫妻、浜田庁長夫妻、中尾さんと記念の食事会をしたのが最後となった。

 

その後、再度倒れた陳舜臣さんは大好きな沖縄に行きたいと言い夫人と沖縄に滞在した。

或る日、夫人から矢張り主人は神戸に帰りたいと言っているので帰ります。帰ったら私にあって話したいことが
あるので電話するという連絡がきた。

しばらくして、携帯電話が鳴った。

「陳です、私です」夫人からだ。

話は数日中に会いたいからと、そして、そのあと今まであったいろいろの事を回顧するように話は続いた。
それが最後の会話になるとは考えてもいなかった。

「まだ話したいことが沢山あるの、では、お会いした時にね」

その後、夫人の携帯を呼んでも返事がない。おかしいと思っていたら入院してると連絡が来た。嫌な予感がした。

 

それから何日かして療養中の陳舜臣さんを見舞いに行こうと思い、マンゴープリンをデパートで購入したところで
携帯電話がなった。

由果さんからだ。

「母が亡くなりました」

「えっ、では、父上の所へ見舞いにいけないねえ」

「そうですね」と由果さんのモノトーンの声が聞こえた。
ふと、携帯電話の「みやたさん? 私、陳です」という声が無性に懐かしく思い出した。



同人誌「四季」平成26年夏季号(30号)掲載



     
 ハワイ陳舜臣文庫前         ハワイ天理文庫にて

 
 山本直純さんと                        鳳蘭のディナーショーにて

 
 ワイキキ海岸

 
                              ハワイ行の機内

 

 
 ガジュマルの木の下で朝食               デジャヴ出版記念会

 
 齋藤譲一会長夫妻と                      陳舜臣文庫開設1998年ホノルル

 
 記念講演
 
 吉川前庁長                  浜田庁長

 
 朝日賞受賞記念の会

 
 ブレーカーズホテル

 
 自宅で執筆中の陳さん

 
                            マウイ空港



 
 Ciserello夫妻と

 2007年12月18日撮影


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